『 神 の 証 し 』 新約聖書 ヨハネの手紙一 5章6-12節
狛江教会牧師 岩 田 昌 路
この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、霊はこのことを証しする方です。霊は真理だからです。証しするのは三者で、霊と水と血です。この三者の証しは一致しています。私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはなおのことです。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。神の子を信じる人は、自分の内にこの証しを持っています。神を信じない人は、神を偽り者にしています。神が御子についてされた証しを信じないからです、この証しとは、神が私たちに永遠の命を与えてくださったということです。そして、この命は御子の内にあります。御子を持つ人は命を持っており、神の子を持たない人は命を持っていません。
(ヨハネの手紙一 5章6-12節)
冒頭の聖書の言葉の中に「証し」という言葉が繰り返し語られています。「証し」とは元来、裁判用語であり、証人が語る証言を意味する言葉です。しかし、ここに記される「証し」は、信仰にかかわるものであり、私たちに永遠の命を与えてくださる神がおられることの確証です。
教会で信仰生活をするようになると、しばしば「証し」という言葉を聞くと思います。信仰に生きる者たちが「証し」と称して、自分の信仰の体験を集会でお話ししたり、『月報』や『記念誌』の紙面に文章を記したりします。
一方、冒頭の聖書の言葉には、「神の証し」(9節)が記されています。神がおられることの「証し」が、人間によるのではなく、神ご自身によってなされるというのです。当然ながら、神がおられることは、人間の証しによって決定されることではありません。この世には、神がおられると信じる人間もいれば、神はいないと考える人間もいるからです。ひとつの象徴的なお話があります。
旧ソ連の宇宙飛行士ガガーリンは、「地球は青かった」という言葉とともに「神はいなかった」と語った。一方、アメリカの宇宙飛行士ジム・アーウィンは、宇宙から帰還した翌年にNASAを引退し伝道者としての歩みを開始した。同じ経験をしても、人間の結論は全く逆になることがおこるのです。
だからこそ、私たちはしっかりと確認しておきたいと思います。私たちの信仰の確かさは「神の証し」(9節)にこそあるのです。すなわち、信仰の確かさは、神の啓示、神の言葉によるのである、ということです。逆から言えば、神の言葉に聴くことを抜きにした信仰の証しは、しばしば独りよがりなものになってしまうことがあります。
「神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。」(9節)と記されています。「神の証し」は、どのように示されたかというと、御子(神の独り子)である主イエス・キリストにおいてなされたというのです。神は主イエス・キリストによってご自身の存在と救いの御業をこの世に示されたのです。主イエス・キリストについて、「水と血を通って来られた方」(6節)という表現があります。水は洗礼、血は十字架の死と関係します。すなわち、本来、主イエス・キリストは、罪なき聖なるお方、神の独り子であるにもかかわらず、罪人のように洗礼を受け、罪人のように十字架で苦しみと死を引き受けられたことを表しています。そして、主イエスがそのようなお方であることを証しするのは、霊であると記されます。聖霊なる神が私たちに主イエス・キリストを悟らせ、「神が私たちに永遠の命を与えてくださった」(11節)ことを信じさせてくださるのです。私たちは御子の内にあります。私たちは「神の証し」に触れたのです。私たちの「証し」は「神の証し」に支えられていることを心に刻みたいのです。