『 神の忍耐を知る-悔い改めるように- 』      

ペトロの手紙二 3章8-13節

 狛江教会牧師    岩 田 昌 路

 

愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

(ペトロの手紙二 3章8-9節)

主イエスが約束しておられることがあります。それは「わたしは再び来る」という約束です。今、私たちは主イエスを見ることはできませんが、顔と顔をあわせるように主イエスにお会いする日が来るのです。それは「終わりの日」と呼ばれる日です。聖書によれば、私たちは「終わりの日」に向かって生きているのです。地上で死ぬことが究極の終わりではありません。世界の歴史の終わりがあります。滅びではなくて、神の国の完成です。私たちは死もなく、悲しみも、嘆きも、労苦もない、そのような神の国の完成の日を待ち望んでいるのです。

そこで、私たちが心に留めたい大切なことがあります。冒頭の聖句において、終わりの日がまだ来ていないことの理由として、私たち人間が一人も滅びないで、皆が悔い改めるように、神さまが忍耐しておられるのである、ということが記されています。私たちはしばしば自分自身が経験している忍耐について考えることがあります。新型コロナウイルスによる苦難によっても、私たちは忍耐を強いられてきました。人間関係においても、仕事においても、あらゆる生活の場においても、私たちは忍耐をもって自己抑制し、現実を生き抜かねばなりません。しかし、神さまが忍耐しておられるということを考える機会は、信仰者であってもあまりないように思うのです。

神さまは忍耐してじっと待っておられます。それは神さまの愛による忍耐です。神さまは一人でも多くの人々が悔い改め、ご自分のもとに立ち返ることを待っておられるのです。神さまは一人も滅んではならないと考えておられるからです。キリスト教会は、神さまの忍耐を知っている共同体であると言えます。

さらに読み進めると、「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。」(12節)と記されています。終わりの日は神の日と言われています。神の日が来るのを早めるようにするべきであるとはどういうことでしょうか。私たちはどのように生きればよいのでしょうか。

ひとつは、祈りの生活です。神の日が来るのを待ち望む生活は、祈りの生活になるのです。神の日を待ち望むとは、主を待ち望むことであり、神の国を待ち望むことです。主を待ち望む信仰は「マラナ・タ」(主よ、来て下さい)という祈りになります。神の国を待ち望む信仰は、「御国をきたらせたまえ」という祈りになります。どちらも教会が大切にしている祈りで、これらの祈りが全世界に広げられることが神の日の到来を早めることになります。

もうひとつは、主イエスを宣べ伝える生活ということになります。神さまの愛にねざす忍耐を知る教会は、世の人々に主イエス・キリストを宣べ伝え続けます。伝道は、「終わりの日」に向かう生き生きとした希望に満ちたわざなのです。伝道の担い手は、やはり神さまの忍耐をいよいよ身に染みてわかるようになります。そのことによって、私たちはまことの主人である神さまと喜びを共にします。私たちは、神さまと共に忍耐し、神さまと共に喜ぶ者として召し出されているのです。