『 クリスマス-あけぼのの光が我らを訪れ- 』  ルカよる福音書1章76-79節

                        狛江教会牧師  岩 田 昌 路

 

「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」 (ルカによる福音書  1章76-79節)

 

 クリスマスの祭典が近づいています。全世界中の人々が救い主イエス・キリストの御誕生を記念して喜び祝うときであります。待降節(アドベント)において、神の言葉に共に聴き、祈りを共に合わせながら、救い主をお迎えする備えをしたいのです。

 冒頭に掲載した聖書の言葉は、洗礼者ヨハネの父親であったザカリアの唇から発せられた言葉です。ザカリアは、妻エリサベトに子が与えられるという天使の言葉を信じなかった為に、口がきけなくなりました。しかし、子が誕生して、唇が開かれて、舌がゆるむと、神を賛美しはじめたのです。ここでの幼子とは洗礼者ヨハネのことです。彼が救い主に先立って、その道を整え、罪の赦しによる救いを知らせる人となることを告げています。そして、この世界に救い主が与えられ、ザカリアの子である洗礼者ヨハネがその道を備えるのは、すべて神の憐れみの心から来ているのだというのです。本来、憐れみという言葉には日本語の訳では表しきれない豊かさがあります。一時的に可哀そうと思うようなことではないのです。相手をいつも覚え続けている真実さがそこにあります。神はそのような憐れみをもって、この世界に生きる私たちを憐れんで下さるのです。そして、聖書は、世に遣わされる救い主イエス・キリストも、神に等しい方として、憐れみ深い方であることを証言しています。

ザカリアは、主を賛美しつつ語ります。「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(78-79節)キリスト教会は、ザカリアの言葉の背後に旧約聖書のイザヤ書の預言を読み取ってきました。

闇の中を歩む民は、大いなる光を見

 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。(イザヤ書 9章1節)

この世に生きる者たちは、いつでも「暗闇の中に歩む民」「死の陰の地に住む者」です。イザヤの時代には、戦争があり、王国の崩壊があり、他国による支配がありました。現代世界には、新型コロナウイルス感染症による苦難、ロシアのウクライナ侵攻による脅威があり、恐れや不安が広がっています。

私たちも「暗闇と死の陰に座している者たち」なのです。しかし、この世界に「あけぼのの光」「朝の光」「日の光」が訪れて、私たちを照らし、私たちの歩みを平和の道へ導くというのです。この大いなる預言が主イエス・キリストの到来において成就するのです。イザヤ書9章を読み進めると以下の預言の言葉に出会います。

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。

ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。

権威が彼の肩にある。

その名は、「驚くべき指導者、力ある神

永遠の父、平和の君」と唱えられる。(イザヤ書9章5節)

 ザカリアは、わが子が大いなる神のご計画の中で用いられることを見据えつつ、平和の君であられる救い主の到来を喜び、神を賛美しました。この世界にはすでに平和の道へと導く真実な光が届けられているのです。ですから、クリスマスは「光の祭典」「光の降誕祭」とも言われるのです。