『 わたしはここにおります 』 
             

   旧約聖書 イザヤ書 6章18 節

  狛江教会牧師    岩 田 昌 路

 

『聖書は、神と人間との歴史における出会いの物語である。』(新共同訳聖書巻末「聖書について」) 聖書は神と出会った者たちの物語を生き生きと記します。私たちも、聖書を通して、神との出会いに導かれ、神との交わりに招かれるのです。

イザヤ書6章1-8節に、イザヤという人が神に出会い、預言者として遣わされる出来事が描かれています。紀元前736年、神殿の礼拝における出来事です。彼は幻の中で「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」(3節)というセラフィム(天使のような存在)の天来の声を聴きます。そして、彼は、神がそこに確かにおられること、神の御前に自分があることを知るのです。イザヤ書が告白している神は、「聖なる神」です。「聖」とは、元来「分離」を意味する言葉で、神が全ての被造物から超越した存在であることを表しています。一体、聖なる神の御前に置かれた時、人間はどうなるのでしょうか?

 イザヤは叫びます。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(5節)イザヤは、聖なる神に出会った時、「災いだ」と叫んだのです。なぜなら、イザヤには自分が汚れた者であるという自覚があったからです。イザヤ自身も彼が住む神の民も、神の御前に罪ある存在なのです。聖なる神の御前に汚れた罪人である人間は存在することができず滅びるばかりなのです。日本人にはわかりづらいのですが、これが、聖書における神の御前にあるということの感覚です。

しかし、イザヤが自らの滅びを自覚した時に、セラフィムが祭壇の炭火を唇にあてて語りました。

見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」(7節)イザヤは聖なる神に滅ぼされず、罪を赦されました。彼は神の御前で自分の罪が焼かれる経験、罪が赦される経験をしたのです。神との決定的な出会いは、「あなたの咎を取り去られ、罪は赦された。」(7節)という神の名による宣言を聴くことなのです。

 イザヤが経験した罪の赦しは、主イエス・キリストの救いによる罪の赦しを先取りするものでした。父なる神は、私たちが本来受けるべき神の裁きを身代わりに受けて下さる救い主として、愛する独り子を世に遣わして下さいました。あのゴルゴダの十字架で、主イエス・キリストが死なれた出来事は、世にある全ての人間が「あなたの罪は赦された。」という神の名による宣言を聴き、救われるためのものであったのです。

 罪を赦されたイザヤは、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」(8節)という主のみ声を聴きました。イザヤは応答します。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」(8節)こうして、イザヤは神の言葉を告げる預言者として遣わされてゆくことになるのです。

 狛江教会は創立64周年を迎えました。教会は主に罪を赦され、遣わされる者たちの群れです。私たちも神に赦された者として「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」(8節)と生き生きと応える者でありたいのです。