『 祝福を告げる教会 』
ルカによる福音書 6章20−26節
狛江教会牧師 岩 田 昌 路
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき
、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。
この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
(ルカによる福音書 6章20−26節)
主イエスによる「平地の説教」と呼ばれる聖書の言葉です。マタイによる福音書には「山上の説教」が記されます。「幸いである」「不幸である」という言葉が繰り返されています。これは「教訓」というよりも、真実な神の言葉として臨む「宣言」です。ここに宣言される「幸い」と「不幸」は、主イエスの到来により明らかにされる光と陰のようなものです。
「貧しい人々」「今飢えている人々」「今泣いている人々」とは、この地上のどん底にあり、悲惨をなめつくしている人々のことです。主イエスはそのような人々をご存知であられ、呼びかけてくださいます。さらに主イエスを信じて従ってゆく人々が、地上で引き受ける迫害の苦難についても主イエスはご存知であられます。主イエスは、貧しさ、飢え、悲しみ、迫害の境遇にあるすべての人々に「幸いである」と宣言するのです。悲惨が即幸であるというよりも、悲惨のどん底においてこそ、私たちは神の国、神の支配、神ご自身の到来を待ち望む者とされることにおいて幸いなのです。主イエスはすでに地上の悲惨のどん底に到来され、神の国、神の支配は始まっています。「不幸である」という言葉は、地上の満ち足りた状況の中で、主なる神を求めることなく、知ることなく生きている人々に向けられていることになります。
主の恵みによって、狛江教会は創立62周年記念日を迎えることができました。改めて地上にある教会とはどのような共同体であるのかを深く考えさせられます。前掲の聖句によれば『祝福を告げる教会』の生き生きとした姿が浮かび上がります。狛江教会もこの地域で祝福を告げ続けてきました。教会は何が本当の祝福であるか、何が本当の不幸であるかを知っているのです。「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」(ペトロの手紙一 3章9節)との聖句を想起します。私たちは、祝福を受け継ぎ、祝福を告げ、祝福に生きる教会に、共に召され仕えているのです。
主イエスはこれらの祝福の宣言をご自分の弟子たちに語られました。「イエスは、目を上げ弟子たちを見て言われた。」(20節)と記されています。主イエスが目を上げご覧になられた弟子たちは、あの十字架の前夜には主イエスを裏切り逃亡してしまう者たちです。彼らの信仰は、決して確かなものでも完全なものでもありませんでした。彼らは弱く愚かな罪人でしかありません。しかし主イエスは死の墓から復活させられたあと、あの弟子たちにご自分の復活の姿をお見せになられて祝福されます。
「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。」
(ルカによる福音書 24章50節)
主イエスの弟子とは、主イエスに呼ばれ、救われ、祝福された者のことです。私たちも主イエスの弟子として召されました。私たちも自分の弱さや愚かさや罪深さを知っています。しかし、それ以上に大切なことがあります。私たちは主イエスに祝福され、祝福を告げる教会に招かれ、永遠の命を約束された神の子として、確かな希望に生きる者とされていることです。