『 献身という生き方 』         
ローマの信徒への手紙
  1212
狛江教会牧師 岩田昌路
                                                  

 

今回は『献身という生き方』という特別な題を掲げました。聖書的な生き方についてご紹介をしたいからです。
「自分を献げる」という尊い生き方があるのです。それは、「仕える」という生き方、
さらに「愛する」という生き方にかさなるような生き方でありますが、「献身」という言葉は一般にも知られている言葉だと思います。


4年に一度のサッカー・ワールドカップが、いよいよロシアで開幕しました。サッカーファンが寝不足になる季節です。
サッカーではチームの勝利のために各選手の献身的プレーが求められます
。献身的プレーとは、チームのために一つの部分として役割に徹することです。
自分の栄光ではなく、チームの栄光のために身を捧げるのです。


高齢者への介護、病者への看病について献身的介護・看病のように使われる場合があります。
これは尊い愛に満ちた働きであることは確かです。しかし、さまざまな厳しさや労苦を伴うことも確かです。
果てしない愛の労苦の中に立ち続ける人々は、多いのです。


献身という言葉には、自己犠牲のニュアンスが含まれますが、何よりも尊い目的のために選びとられるあり方、生き方であると言えます。
しかし、聖書を学びはじめる時、『献身という生き方』は、私たち自身の意思や選びや努力が意味をもつとしても、
実はもっと大きな力に支えられていることを知るべきことがわかるのです。


若き日に教会の修養会で、『三つのD』というお話を牧師から聞きました。
神が私たちに与えられた賜物をどのように生かし、生きるのかという流れの中でのお話でありました。

@Discover(発見する)、自分に何が与えられているかをさまざまな経験の中で発見する。
A
Develop(発展させる)、発見した賜物を学びや経験によって発展させる。
B
Devote(献げる)、発見し発展させたものを(神と人とに仕えるために)献げる。

日本社会では、親や教師が@とAのDを教えることはあっても、BのDについては、教えることに意識されていません。
自分を献げるという生き方において得られる人生の深い喜びを知らず、すべてを自分の幸福のためにだけ用い、
自分の欲を満たそうとする人間の心が、日本社会を覆い暗くしているのではないでしょうか。 


使徒パウロが記したローマの信徒への手紙12章1〜2節が示されました。内容的に後半部の最初に位置する言葉です。

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。
これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。
むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、
また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい
。(12章1−2節)  

自分の体を神に献げよ!と勧められています。使徒パウロは、突然この勧めを記したのではありません。
1
11章で力を込めて、その前提となる福音の内容を記してきたのです。それは、主イエス・キリストの十字架と復活の御業に現された神の憐みです。
聖書が証しするのは、すべての人間の業に先だつ、神の憐み、神の愛、神の恵みです。使徒パウロの勧めは、神の憐みによる勧めなのです。


自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」(1節)と記されますが、
私たちは自分の手で体を「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」とすることはできません。
自分の精進や努力で自分を清めて神の御前に進み出なさいという勧めではないのです。
あなたがたは、主イエス・キリストによって、「神に喜ばれる聖なるもの生けるいけにえ」とされたのだからその体を献げなさいと勧めるのです。

「いけにえ」(口語訳:供え物)には何となく独特の響きがあります。
私たちが思い起こすべきは、私たちの救いのために、主イエス・キリストの尊い命が献げられたということです。
神の独り子は私たちの救いのための「いけにえ」となってくださったのです。神の憐みは「キリストの献身」に現れているのです。
神の憐みの大きさや深さを知る者は、喜びと感謝をもって自分の体を神に献げるのです。これが私たちのなすべき礼拝だと言われます。
そして、この礼拝こそが、教会の中心、信仰生活の中心にあるもので、「献身という生き方」を生み、育て、支えるものであります。


献身の喜びとは何か。ある人が「神の言葉によって共に変えられる喜びである!」と言いました。なるほどと思います。
私たちは、使徒パウロが語るように、頑なな心が打ち砕かれて、心を新たにして自分を変えて頂くことを、大きな喜びとすることができるようになる。
そして、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」を祈り求めることができるようになるのです。


主イエス・キリストは、律法の中心について、あなたの神である主を愛し、自分を愛し、隣人を愛することである、と教えられました。
『献身という生き方』は、神に愛された自分であることを喜び感謝し、神と人とを愛し、神と人とに仕えてゆくことです。
そして『献身という生き方』は、悲壮なものではなく、いつも驚き、喜び、感謝に満ち溢れるものなのです。