『 この自由を得させるために 』 ガラテヤの信徒への手紙 5 章
狛江教会牧師
岩 田 昌 路
この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。
だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。
(ガラテヤの信徒への手紙 5章1節)
聖句は高らかに証言します。主イエス・キリスがわたしたちを自由の身にしてくださった!これは、異邦人への伝道者として召された使徒パウロの言葉です。
神に救われることは、奴隷の軛から解き放たれ、自由な生へ導かれることである!パウロはそう語っているのです。奴隷の軛とは、一体、何のことでしょうか?
使徒パウロは奴隷の身分の人間であったわけではありません。奴隷という言葉は、当時の身分ではなく、全ての人間の真相を言い表している言葉なのです。
奴隷には必ず主人がいます。この場合の主人は、罪の力であると言えます。
わたしたちは、自由についてどのように考えているでしょうか。自分の思い通り生きることができることが自由であると考えるのではないでしょうか。
自分を縛るものがなにもないことが自由だと考えるのです。確かにわたしたちは他の誰にも束縛されない自由の権利をもっています。
憲法に保障される基本的人権は大切です。しかし、聖書の語る自由というのは、そういう次元の自由を意味しているわけではないのです。
考えてみれば、わたしたち人間の考えることがすべて正しいわけではありません。わたしたちが考えることが自分自身を滅ぼすこともあります。
わたしたち人間は自己本位で身勝手なことを考えます。聖書は、自己本位な自由の真相を、罪の奴隷として見ています。
それは、自由の名のもとに、欲望の虜、誘惑の虜となって生きている人間の姿のことです。
宗教改革者マルティン・ルターが、1520年に出版した『キリスト者の自由』という書物において、キリスト者についての二つの命題を提示しています。
@ キリスト者は、万物を支配する自由な君主であって、だれにも隷属しない。
A キリスト者は、万物に奉仕する僕(しもべ)であって、すべての人に従属する。
キリスト者とは、神とともにあるゆえに神以外の何ものにも束縛されない自由に生きると同時に、キリストに倣って、自分を僕(しもべ)として喜んで献げてゆく
自由に生きる者であるという意味です。
一般に自由には二種類の自由があるといわれます。「〜からの自由」と「〜への自由」です。信仰に生きる者は、神以外の力、特に人間の力で対抗できない
罪と死の力から自由にされると同時に、愛に生きることへの自由に向かわせられるのです。
神はわたしたち人間に人格を備え、意思もって生きるようにしてくださいました。それは神を愛し、自分のように隣人を愛するための自由です。
しかし、そこに罪の力が働きます。神が人間に意思を与えられた目的を忘れるとき、自由とは名ばかりの罪と死の奴隷として生きることになってしまうのです。
主イエス・キリストは、いと高き神の独り子であるにもかかわらず、ご自分の命を十字架に献げて、神の救いの業を成就してくださいました。
それは、僕(しもべ)としてのお姿であり、そこに、わたしたちへの神の愛と赦しがあらわされたのでした。主イエスの十字架の出来事は、
わたしたちをあらゆる軛から解き放つための業でありました。
キリスト者の歩みのすべては、主イエス・キリストの恵み、神の愛に応答するわざです。わたしたちも、神に与えられた自由の意味をしっかりと受けとめ、
神の愛とご期待に応える自由な生にあって、共に歩むものでありたいと心から願います。使徒パウロの力強い宣言と勧めを心に刻んで、さらなる生涯の日々に臨みましょう。
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。
(ガラテヤの信徒への手紙 5章13−14節)