涙を流される主
ヨハネによる福音書 11章28〜37節
狛江教会牧師 岩 田 昌 路
マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。
「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。
ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」
と言う者もいた。(32〜37節)
ヨハネによる福音書11章は、マルタとマリアの兄弟ラザロが死して葬られたあとに生き返るという
主イエスの驚くべき御業が記されています。その長い物語の一つの場面です。主イエスの御前には、
兄弟ラザロの死を嘆き悲しむマリアと、彼女を見守りつつ悲しみを共にするユダヤ人たちがおります。
私たちが注目するのは、主イエスのお姿であります。
主イエスは「心に憤りを覚え、興奮して」(33節)と記されます。
「心に憤りを覚え」は、元来、馬が激しく鼻を鳴らす姿を表す言葉です。
また、「興奮して」は、心を動かすことを表しています。
いずれも主イエスの心の揺れ動きの激しさを表す言葉です。
一体、主イエスは何に対して憤られ、興奮されたのでしょうか。
マリアの嘆きや悲しみに対する同情、または人々の不信仰に対する怒りである、と説明する人々がいます。
しかし何よりも、人間を深い嘆きと悲しみに閉じ込める死の力に対する怒りであると受けとめることができます。
これは「イエスは涙を流された」(35節)という言葉からも推測できることです。
主イエスは人々の案内でラザロが葬られている墓に向かわれます。
主イエスの両目にはたくさんの涙が溢れて、両頬を流れたのです。主イエスはラザロの確かな死を知りつつ、
彼の生き返りを信じておられたはずです。
にもかかわらず、主イエスはマリアとユダヤ人たちの悲しむ姿を見て涙を流されたのです。
あのとき、主イエスは彼らの嘆きと悲しみをご自分のものとされておられたということです。
代々の信仰者たちは、この主イエスのお姿に深い慰めをあたえられてきました。
主イエスは、嘆き悲しむ者の傍らに立たれて、涙を流されるお方なのです。
マリアは主イエスにお会いしたとき、
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。
私たちも人生の只中で「主よ、苦難の時、どうして共にいてくださらなかったのですか?」と、主に問うような時があります。
しかし、主イエスはすでに嘆き悲しむ者の傍らにいてくださいます。
あなたの苦しみや悲しみを知っておられ、涙を流してくださっているのです。
それだけではありません。すでに私たちを死の力に代表される闇の力を打ち砕いてくださり、私たちに救いの道をご用意くださっているのです。
主イエスは「わたしは復活であり、命である」(11章25節)と言われました。
主イエスを信じる私たちは、すでに死では終わらない永遠の命の望みに溢れて生きるものとされているのです。