2013年10月
『わたしたちの父である神』
ガラテヤの信徒への手紙 4章1〜7節
狛江教会牧師 岩 田 昌 路
しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に
生まれた者としてお遣わしになりました。それは、
律法の支配下にある者を贖い出して、
わたしたちを神の子となさるためでした。
あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、
わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。
ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。
子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。(4〜7節)
主イエスは、真の人間として地上に生きておられた時、
いつも神様を「アッバ、父よ」と呼びかけ祈っておられました。
アラム語の「アッバ」は、「おとうちゃん」という意味の言葉です。
まさしく親しい呼びかけです。主イエスはご自分が真の神の子であることを
自覚しておられました。父なる神は、第一に主イエス・キリストの父で
あられるのです。しかし、それだけではありません。
父なる神は、私たちにも主イエスと同じように、
「アッバ、父よ」と呼ぶことをおゆるしくださるのです。
私たちは主イエスのように神様から生まれたのではなく、
神様に造られた者たちです。しかも、身勝手な心で神様のもとから離れ、
神様の御心に背き続けている者たちです。しかし、
そのような私たちが「アッバ、父よ」と神様を呼ぶことのできる
神の子とされるのです。私たちが救われるとは、このようなことなのです。
使徒パウロは、御子の霊に導かれて、私たちは「アッバ父よ」と
呼びかけられるようになるのだと語っています。
聖書において、神の霊という言葉は、神の息と同じ意味です。
主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。
人はこうして生きる者となった。(創世記 2章7節)
この御言葉のように、御子の霊を吹き込まれ、真実に生きる者となる。
それは単に肉体的に生きるということではなく、キリストに結ばれて神の子とされ、
あらゆる罪と死の縄目から解き放たれて喜びと感謝に満ちた心で
生きるようになるということです。
神様を「アッバ父よ」と呼びかける喜びが本当の意味で深まるのは、
「イエスは主である」と告白して洗礼を受け、神の子として
身分を与えられる約束を与えられた時です。
洗礼とはキリストと結ばれることであり、キリストを着ることです。
それは、私どもの現実によっては、もはや左右されない神様の確かさに
しっかりと捕らえられて生きることができるという保証なのです。
ガラテヤの信徒への手紙4章において、私たちの新しい身分を表す言葉は、
「神の子」という言葉の他にもうひとつ、「神の相続人」(7節)
という言葉があります。相続人とは財産を受け継ぐ者のことです。
ですから、「神の相続人」とは、父なる神の財産を受け継ぐ者という意味です。
その財産とは、アブラハムに与えられた神の祝福であり、
神のみが与えられる永遠の命です。洗礼とは、キリストに結ばれて、
罪を赦され、死では終わらない永遠の命に生きる約束を与えるものです。
私たちは、いつでも神の子、神の相続人とされている素晴らしい恵みを
「アッバ父よ」と祈るたびに思い起こすことができるのです。