2013年7・8月
『キリストの体なる教会に生きる』
説教者:狛江教会牧師 岩 田 昌 路
説教箇所:詩編133編 1〜3節
コリントの信徒への手紙一 12章12〜31節
見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、なんという喜び。 (詩編133編1節)
これは、主なる神に集められた者たちが、共に座し、共に食べ、
共に住まう一つの家族とされている恵みと喜びを歌っている言葉です。
それこそ、なんと素晴らしい言葉であろうかと思います。
平和を祈り求める八月に、私たちの心に響きをたてる言葉です。
キリストの教会は、この詩編の言葉を、主を礼拝する中で
歌い続けてきました。そして、生命を分断し、
共に生きる喜びを奪う罪と死に向き合いつつ、
教会は主なる神の驚くべき救いの御業を歌い続けてきました。
教会とは何かをあらわす聖書の言葉に「キリストの体」という言葉があります。
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(27節)
「あなたがた」とは、主イエス・キリストを信じる群れであります。
教会は会堂のような建物ではなく信仰の群れを表します。ですから、
ここでは、教会はキリストの体であると言われていることになるのです。
教会は「イエスは主である」と告白し、洗礼を受けた者たちが、
聖餐にあずかり続ける共同体です。洗礼を受けるということは、
個人として救いを受けるというよりも、キリストの体の部分とされる、
神の民・神の家族の一員とされるということなのです。
私たち人間の体には、頭があり、手や足があり、目や耳があり、
その他、隠れて見えない部分も沢山あります。
どれも一つの体において必要な部分です。
しかも、体全体に血管や神経がゆきわたり、これらの部分は深く結びついています。
教会も同じです。教会に生きる者たちは、誰一人例外なく、
神と群れ全体に必要とされている存在であり、
お互いを配慮し合っているのです。
「お前はいらない」という言葉は教会にありません。
キリストの体を語る言葉の中に、大変印象的な言葉があります。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、
一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(24〜26節)
一人の苦しみを共に苦しみ、一人の喜びを共に喜ぶことのできるのが
教会の姿です。教会が一つの体であるならば当然です。
普段は目立たない足の小指であっても、そこに痛みがあれば、
体全体が痛いのです。隠れている内臓の調子が悪くなれば、
体全体の調子も悪くなるのです。
キリストの体である教会が体全体として健やかであり続けるために、
私たちはいつでも主イエス・キリストがどのようなお方であるかを
思い起こす必要があります。
主イエスはご自身のお体を、私たちの救いのために十字架に捧げて下さいました。
ここに神の愛があります。コリントの信徒への手紙一13章には
「愛の賛歌」と呼ばれる言葉が記されています。
これも教会が歌い続ける愛の歌です。
あなたもその愛に生きることができるのです。
共に苦しみ、共に喜ぶ、キリストの体なる教会で、
あなたも神の愛に支えられて愛に生きはじめることができるのです。
真の平和への道もここにあるのです。