2013年2月

『黄金律に生きる』

説教者:狛江教会牧師 岩 田 昌 路
説教箇所マタイによる福音書 712


だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
これこそ律法と預言者である。(12節)

黄金律(ゴールデン・ルール)と呼ばれている有名な聖句です。
手元にある国語辞書で黄金律という言葉を引きますと
「意味が深淵で人生にとってきわめて有益な訓言。」との説明に続いて、
右の聖句を指すと記されていました。
「人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい」との教えは、
他宗教、哲学、道徳にも見られますが、
「人にしてもらいたくないことを人にしてはならない」という否定的、
消極的な言葉が多いことは覚えてよいと思います。
いずれにしても黄金律を常識や人生訓として知っている人々は多いのです。

しかし、黄金律に生きるということについてはどうでしょうか。
多くの人々はそこに困難を見出すのではないでしょうか。
私たちの権利主張は実に旺盛なものです。まわりの人々への要望は
尽きることがありません。ですから、それらを人に対してすべきこととして
受けとめなおす時、それがいかに困難であるかがわかるのです。
人にしてもらいたいと思うことが、自己本位なものであるなら、
その分だけ人に対して実行する大変さに気づかされるのです。
黄金律を常識や人生訓として受けとめることの限界がここにあります。
壁に飾って素晴らしい言葉であるということで終わってしまうのです。
そうであれば、黄金律が私たちの生活を本当に新たにする力には
ならないことになります。

今、私たちはこの黄金律を、主イエスが山上の説教において
語られた御言葉として聞いています。主イエスはこの教えに命と力を吹き込まれ、
まさに金の輝きを持つ言葉とされたのです。
この教えをまさしく黄金律とする神の愛があります。
私たちは神の愛を見つめる中で、この教えを知る必要があるのです。

黄金律は、端的に愛の教えであると理解することができると思います。
山上の説教では
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(5章44節)
という徹底した愛が教えられていました。
この御言葉を聞く際に覚えるべきことは、
これを語られた主イエスがまずその愛に生きてくださったということです。
それがわかるのは十字架の出来事です。
主イエスは敵を愛する愛を生き抜かれたのです。
神に背を向けて神の敵となった私たちへの愛です。
私たちの罪を赦す愛です。私たちはすでにその神の愛に生かされています。
神に赦されている、神に愛されている、その深い喜びと感謝が、
黄金律に生きる力となるのです。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、
わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。
ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを
愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
(ヨハネの手紙一 4章10〜11節)

神が私たちを愛してくださったので、私たちも愛し合うべきなのです。
私たちの愛はどこまでも不完全なものにすぎません。
だからこそ愛を求める祈りが生まれます。神の愛に支えられて、
私たちは黄金律に生きる心を新たにさせられるのです。